明治の初め、初代尾関次七は伝来の荒物雑貨小売りの兼業として、提灯の販売のほかに製造を始める。
初代尾関次七は明治元年より雑貨を扱いながら岐阜提灯の販売に力を入れ、やがて製造にも着手するようになりました。当時の岐阜提灯は種類も少なく、安価で素朴なものでした。
明治二十年、東海道線が京阪神まで開通すると販路も開け、販売量は飛躍的に増加。品質の改善が急務となり、製品の改良を重ねていきます。
またこの頃、各地で開催された産業振興策の博覧会に、岐阜提灯業界は積極的に出品し、宣伝に努めました。
一段と知名度が広がり生産量が増える中、張型にひごを螺旋にかける技術や、絹張りの岐阜提灯の発案、また火袋の意匠においても、一流画伯に下絵の揮毫を依頼するなど新しい試みが数々行われ、装飾的価値のある優美な製品が生産されるようになりました。
明治二十四年、二代目次七は岐阜提灯の製造販売を専業とし、また自らも製造に関わり、新しい技術や海外向けの製品などを次々と開発していきました。
明治二十六年、アメリカ・コロンブス博覧会に出品した際、岐阜提灯は大好評を博し、大量注文を受けることになります。しかし、この時代の提灯絵は全て手描きであったため、納期に間に合わないことは明白でした。急遽量産化が検討され、その対策として、下絵を彫った伊勢型紙で和紙に色彩を摺り込み、その絵紙を張り上げる「摺込絵」の技法を生み出します。
肉筆に迫る表現を可能にした摺込技法の導入は、岐阜提灯の量産化と近代化の道を開くものでした。
明治四十三年、名古屋にいとう呉服店が百貨店を開店するにあたって、当社の岐阜提灯を展示したところ大変な好評を得、初めて百貨店で販売されることになります。やがて各都市で開店する百貨店でも販売されるようになり、岐阜提灯は全国的に普及していくようになったのです。
また、昭和三年天皇御即位式典奉賀に際し、大内行灯一対が献上品となる栄に浴し、以来現在まで、皇室・宮内庁においてもご愛用いただいています。
昭和二十六年には、世界的彫刻家イサム・ノグチ先生が来社され、のちに光の彫刻として、世界からその芸術性を高く賞賛される「あかり」を製作することになりました。当社は指定工場として協力し、最終的に大小二百種を超える「あかり」が誕生しました。
岐阜提灯とイサム・ノグチ先生との出会いは、日本の伝統工芸に光を与え、岐阜提灯の可能性を飛躍的に広げる革新的な出来事だったのです。
明治より続く岐阜提灯の老舗として、長きに渡る伝統を継承してきたオゼキは、岐阜提灯における新たな価値を絶えず提案し続け、現在まで特許、実用新案、意匠登録など数多く取得し、また、デザインや発明に関する賞も数回受賞するに至りました。
そしてこれからも、今日まで培われてきた伝統技術に研鑽を重ね、常に時代と向き合い、良心的で、文化性の高い商品を提供し続けていくことが私たちの使命だと考えています。