縞揃女弁慶(見立て三井の鐘)
(歌川国芳画)
岐阜提灯は、産地岐阜の名から称ばれるようになりました。
昔から良質の和紙や竹の産地は美濃の国とされており、これらの集散地である岐阜の町に紙と竹を原料とする提灯と和傘の手工芸が発達しました。このような諸条件から、優秀な産地となり、岐阜だけに伝わる特殊技巧で無形文化財的な工匠の手によって岐阜提灯は造り出され、今日まで受け継がれてきました。
俤げんじ五十四帖 常夏
(歌川国貞画)
岐阜提灯の発祥については、諸説ありますが、慶長年間(十六世紀)に創造され、「岐阜志略」に、土岐成瀬の時に起こったと掲げてあり 、徳川三代将軍の時に初めて幕府に献じたと記されています。
その後も尾州家代々のお買上げを受け、更に天明(十八世紀)の頃には奉行黒田六一郎を通じ将軍家、大奥からも御用があったとされています。
岐阜提灯は幕府への献上品だけでなく、一般社会にも流布されていましたが、高級品だったためか、大量に地方へ移出するほど生産されていなかったようです。
偐紫田舎源氏(歌川国貞画)
このように明治になるまで、岐阜提灯の生産はそれほど多くなく、経済や交通の発展していない時代でもあり、全国に流布されていたとは考えられません。
岐阜提灯が脚光を浴びるのは、明治十一年(1878年)十月、明治天皇が東海北陸地方巡幸の際、西本願寺岐阜別院にお泊りになった折、岐阜県の主要産品の一つとして岐阜提灯を天覧に供したところ、陛下のお目にとまるという光栄に浴したのでした。
このことから、岐阜提灯の名は全国へ広く知れ渡ることとなりました。